澄み切った夜空を見上げて、無数に輝く星々を眺めたことはあるでしょうか。
町から遠く離れた場所へ行けば、こぼれ落ちてきそうな満天の星に出会うことができます。
何万光年、何億光年という途方もない距離と時間を超えて届く光を見つめていると、果てしなく広がる宇宙の壮大さと、その中にいる自分自身のちっぽけさに、特別な感覚を覚えるかもしれません。
一方で、地上に目を向けると、私たちは普段、学校や職場へ行き、友人や家族と語らい、食事をして眠るという、当たり前の毎日を過ごしています。
時には人間関係で悩んだり、将来の不安に押しつぶされそうになったりして、「なぜ自分ばかりこんな目に遭うのだろう」「生きている意味はあるのだろうか」と立ち止まってしまうこともあるでしょう。
今回は、天文学が明らかにする宇宙の姿から、私たちが、人間に生まれてきた意味について迫りたいと思います。
天文学が明かす驚異の確率。生命誕生の想像を絶する道のり

現代の科学は、宇宙がいかに巨大であるかを解き明かしてきました。
地球が属する太陽系は「天の川銀河」の中にあり、国立天文台やNASA(アメリカ航空宇宙局)などの推定によると、そこには太陽のように自ら光を放つ恒星が、およそ2000億個も存在すると言われています。
さらに観測可能な宇宙全体には、天の川銀河のような銀河が少なくとも2000億個以上(近年の研究によっては2兆個とも)あると推測されています。
つまり、宇宙の星の数は「2000億×2000億」という、人間の想像を絶する数に上ります。
これほど無数の星が存在するにもかかわらず、現代の科学観測が進むほど、私たちが生きるこの地球の環境がいかに特殊で、そこに命が宿るまでの道のりがどれほど困難なものであったかが分かってきました。
まず、生命に欠かせない「液体の水」が存在するためには、恒星からの距離が近すぎず遠すぎない「ハビタブルゾーン(生命居住可能領域)」という狭い範囲に収まっている必要があります。
少しでも太陽に近ければ水は蒸発し、遠ければすべて氷になってしまいます。
必要な条件はそれだけではありません。
地球のすぐ外側を回る巨大な木星は、宇宙空間から飛んでくる隕石や彗星を引き寄せる「盾」となり、壊滅的な衝突を防いでくれています。
また、月という大きな衛星の存在も見逃せません。地球は少し傾いたまま回転する「コマ」のような状態ですが、月の引力が見えない重りとなって、フラフラと横倒しにならないよう支えてくれているのです。
もし月がなければ、地球は激しく傾き、半年間続く灼熱の昼と極寒の夜が交互に訪れるような、過酷な環境になっていたでしょう。
このような特殊な環境下で最初の単細胞生物が生まれ、それが多細胞生物へと進化し、度重なる大量絶滅の危機を乗り越えて、高度な知性を持つ「人間」に至るまでの確率は、どれほどのものなのでしょうか。
20世紀を代表するイギリスの天文学者、フレッド・ホイル博士は、生命が偶然に誕生する確率を「ガラクタ置き場の上を竜巻が通過したあとで、偶然ボーイング747(ジャンボジェット機)が組み上がっている確率と同じである」と表現しました。
また、日本の遺伝子工学の世界的権威である村上和雄博士も、その確率の低さを「1億円の宝くじの1等に、100万回連続して当たるようなもの」と例えています。
私たちは「たまたま」ここにいるのではありません。気の遠くなるような数々の不可欠な条件が、一つとして欠けることなく連なって、ようやく「あなた」という命が今ここに存在しているのです。
2600年前の仏教が示す「人間に生まれる」有り難さ

人間が誕生する確率の低さは最新科学が証明するところですが、実は今から約2600年前にインドで仏教を説かれたお釈迦さまは、すでにこの事実を深く見抜かれていました。
釈迦は、私たちが人間に生まれることの難しさを「盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえ」で教えられています。
* * * *
ある時、釈迦は弟子の阿難(あなん)に向かって、このように問いかけられました。
「阿難よ、果てしなく広がる大きな海の底に、目の見えない1匹の亀がいる。その盲目の亀は、百年に一度だけ、息をするために海面へと浮かび上がってくるのだ」
「一方で、その広い海面には、真ん中に小さな穴の開いた1本の丸太ん棒(浮木)が浮いていて、風に吹かれ、波に揺られて、西へ東へ、南へ北へと漂っている」
「阿難よ、百年に一度だけ浮かび上がるこの盲目の亀が、たたまたま海面に顔を出したその瞬間、波間を漂う丸太ん棒の小さな穴に、ひょっこりと首を突っ込むことがあるだろうか」
阿難尊者は驚いて答えました。
「お釈迦さま、そんなことは絶対にありえません。海は果てしなく広く、亀は目が見えません。しかも浮かび上がるのは百年に一度です。対して丸太ん棒は絶えず波に流されています。亀が丸太の穴に首を入れるなど、何億年、何兆年経っても起こりえないことです」
すると、お釈迦さまは静かにこう仰いました。
「阿難よ、お前は『絶対にありえない』と言ったが、全くないとは言い切れないだろう。途方もない時間をかければ、もしかしたら一度くらいは、亀の首が穴に入るかもしれない」
「しかし阿難よ、私たちが今こうして『人間』として命を受けることは、あの目の見えない亀が、丸太の穴に首を入れることよりも、はるかに難しいことなのだよ。有り難いことなのだよ」
* * * *
「有り難い」という言葉は、現代では感謝を表す「ありがとう」として使われますが、元々は仏教の言葉で「有ることが難しい(めったにないこと)」を意味します。
このたとえから、人間に生まれたことは、大変に喜ぶべきことであると説かれています。
では、なぜ釈迦は、それほどまでに人間に生まれたことを喜びなさいと教えられたのでしょうか。
それは、仏教には、どんな苦難がやってきても決して変わることのない「絶対に崩れない幸せになれる教え」が説かれているからです。
そして、その教えを聞いて本当の幸福になることができるのは、唯一、人間として生まれた時だけだからなのです。
絶対の幸福になれる唯一のチャンス。この尊い命で果たすべきこと

「人身受け難し、今已(すで)に受く」
これは、生まれがたい人間に生まれることができた、よくぞ人間に生まれたものだ、という深い喜びと感謝を表した仏教の言葉です。
私たちは日常の中で、つい他人と自分を比べて落ち込んだり、自分の容姿や能力、置かれた環境を悲観してしまったりすることがあります。
「どうせ自分なんてダメだ」「生きている価値がない」と思い詰めてしまう人も少なくありません。
また、お子さんがそのように悩んでいる姿を見て、胸を痛めているご家族もいらっしゃるでしょう。
しかし、どうか思い出してください。
あなたが、そしてあなたの大切な人が、今ここで呼吸をし、生きている。
宇宙の壮大な歴史と、気が遠くなるような因縁の連鎖の末に与えられたこの命は、「絶対に崩れない幸福になれる唯一のチャンス」を手にした状態だからこそ、比類なく尊いのです。
したがって、他人の評価やテストの点数、年収や地位などでは決して計ることのできない、素晴らしい意味を持っています。
鎌倉時代の親鸞聖人もまた、仏典に記されたこの「人身受け難し」の喜びを深く味わわれました。
そして、せっかく人間に生まれることができたのだから、決して後悔のないように「本当の生きる目的」を果たさなければならないと、生涯をかけて教えを残したのです。
そんな大切なことを教えられた、珠玉の言葉が、日本の古典、『歎異抄(たんにしょう)』の中に示されています。
ただ毎日をなんとなく過ごし、やがて消えていくためだけに、この命が与えられたのではありません。
仏教には、すべての人が「生まれてきてよかった」と心から喜べる、絶対に崩れない幸福になる道が説かれています。
夜空の星を見上げた時、あるいはふと立ち止まった時、自分自身の命が誕生した背景にある、果てしない因縁の繋がりに思いを馳せてみてください。
そこから、「では、このかけがえのない命を何のために使うのか」という、人生の最も大切な問いを探求する旅が始まります。
その旅の羅針盤として、ぜひ、『歎異抄』の言葉に触れてみてはいかがでしょうか。
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