コラム

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執念の水路「稲生川」 ~不毛の地を救った新渡戸伝~

こんにちは、齋藤勇磨です。

広大な空の下、豊かな田園風景が広がる青森県十和田市。この市は、青森県東部に位置しています。

この地が、かつて不毛の荒野であったことをご存じでしょうか?

飢餓と貧困に苦しむ人々を救うため、1人の武士が立ち上がりました。

その生涯を賭けた壮大な挑戦が、この地の運命を大きく変えたのです。

これは、新渡戸稲造(5000円札の肖像になった、国際連盟の事務次長を務めた人物)の祖父として知られる盛岡藩士、新渡戸伝(にとべ・つとう、1793-1871)が成し遂げた、稲生川(いなおいがわ)開削事業の物語です。

水なき大地|三本木原、苦難の歴史

今でこそ、十和田市周辺は、県内有数の米どころとして知られています。

事実、市内の稲作付面積は約4,300ヘクタール、生産量は約2万トンに上ります(令和3年産、十和田市調べ)。

しかし江戸時代後期、この地は「三本木原台地(さんぼんぎはらだいち)」と呼ばれる不毛の荒野でした。

火山灰質の土壌は水はけが悪く、稲作には適していません。

加えて、周辺を流れる川は低地を流れており、高台にある三本木原台地まで水を引くことは困難を極めました。

人々はわずかな湧き水や、川沿いの低地に頼るしかなく、その生活は常に不安定だったのです。

当時の記録には、度重なる凶作や飢饉により、出稼ぎや逃亡を余儀なくされた農民たちの悲痛な叫びが残されています。

「飢饉により、草の根を食し、飢えをしのぐ人々が続出した」と記された年もあります。

「娘を身売りに出さざるを得ない」という、悲惨な状況も多く見られました。自然の猛威の前で、人々はただ絶望するしかなかったのです。

この地の悲惨な状況は、当時の文献にも多く残されており、例えば、江戸時代の紀行文には、「三本木原は、一面荒涼たる光景で、人々の暮らしは極めて貧しい」と記述されています。

冷害による不作は数年おきに発生し、そのたびに多くの餓死者を出すという、まさに生き地獄のような状況が、この地には広がっていたのです。

新渡戸伝 ~水路開削に賭けた人生~

この悲惨な状況を打開すべく、立ち上がったのが盛岡藩士、新渡戸伝(にとべ・つとう)です。

62歳、当時としては高齢でしたが、彼は「地域の人々を救いたい」という強い信念を持ち、三本木原台地の開拓を決意します。

その情熱は、まるで老木に宿る炎のように、周囲の人々を熱く照らしていました。

伝は、この地を潤す唯一の方法は、奥入瀬川(おいらせがわ)から水を引くことだと確信していました。

この奥入瀬川は、十和田湖から流れ出る唯一の河川で、美しい渓流は今日、国内外から多くの観光客が訪れる景勝地となっています。

しかし、奥入瀬川から三本木原台地へ水を引くには、途中にそびえる2つの山を越えなければなりません。

これは、現代の技術を持ってしても困難な事業でした。

新渡戸伝は、若いころから、領内の検地や新田開発に携わり、その経験と知識を蓄えてきました。

彼は決して現状に満足することなく、常に領民の生活向上を考え、実行に移す人物だったのです。

特に、水利事業への関心は高く、各地の先進事例を研究し、自らの知見を深めていたといいます。

そんな彼にとって、三本木原の開拓は、まさに人生の集大成ともいえる事業でした。

「何としても、この不毛の地に水を引く。そして、人々が安心して暮らせる豊かな土地にするのだ」

その決意は固かったのです。

伝は私財を投げ打ち、志を共にする仲間を集め、藩に働きかけて資金を集め、この前代未聞の事業に着手することを決意します。

周囲からは、無謀な挑戦だと反対する声も多く上がりました。

しかし、伝は決して諦めません。「ここ一つ、やり抜くぞ」。彼の口癖は、彼の不屈の精神を象徴する言葉でした。

荒野に挑む|「稲生川」開削、世紀の難工事

1855年、ついに工事が開始されました。

稲生川の開削は、まさに「不可能への挑戦」でした。

当時の技術では、水路の勾配を一定に保つことが非常に難しいのです。

簡易な測量器と、槌やノミなどの手作業で、慎重に工事を進めなければなりませんでした。

男たちは、固い岩盤を砕き、土砂を運び出し、一歩一歩、水路を築いていきます。

その作業は、想像を絶するほど過酷なものでした。

山中には、堅固な岩盤が立ちはだかり、掘削作業は困難を極めます。

時には、10メートル以上も掘り下げて水路を確保する必要がある場所もありました。

逆に、10メートルもの土を運び上げて、人工的に水路を造成しなければならない場所もあったのです。

現代のような重機がない時代、すべては人力で行われました。

測量技術も現代とは比較にならず、わずかな誤差が、水路全体の勾配に影響を及ぼします。

伝は、自ら先頭に立ち、職人たちと寝食を共にしながら、工事の指揮を執りました。

彼は、豊富な経験と知識を活かし、現場の状況に応じて的確な指示を出し、困難な課題を一つずつ解決していったのです。

試しに水を流してみれば、水路が決壊することも多々ありました。

そのたびに、土木技術や、水路を流れる水の性質に関する研究が重ねられ、修復作業が繰り返されたのです。

現代であれば、コンピューターシミュレーションで解決できるような問題も、当時は実際に水を流し、失敗から学び、改良を重ねていくしかありません。まさに試行錯誤の連続でした。

しかし、新渡戸伝と仲間たちは、決して諦めなかったのです。

幾度となく失敗を繰り返しながらも、「ここ一つ、やり抜くぞ」の信念を胸に、着実に工事を進めました。

不毛の荒野から、実りの大地へ|稲生川の恵み

1859年、ついに「その時」が訪れます。

4年もの歳月をかけ、不毛の荒野に水が引かれ、奥入瀬川の水が三本木原台地に到達したのです。

そして翌年、1860年の秋、この地で初めての米の収穫が実現します。

人々は、涙を流して喜び、新渡戸伝と仲間たちの偉業を称えました。

この水路は、この地に豊かな実りをもたらすようにとの願いを込め、「稲生川(いなおいがわ)」と名付けられました。

稲生川は、単なる水路ではなく、人々の希望と、未来への願いが込められた、命の水路となったのです。

その後も、稲生川の開拓は地域の人々に受け継がれ、十和田市発展の礎となりました。

新渡戸伝の蒔いた種は、長い年月をかけて、見事に花開き、実を結んだのでした。

新渡戸伝の物語は、「人々の幸せを願い、強い信念を持って努力を継続すれば、どんなに困難な事業でも必ず成し遂げることができる」と教えてくれています。

その精神は、十和田の大地を潤し、人々の暮らしを支える稲生川と共に、今もこの地に生き続けています。

*参考書籍:『稲生川と土淵堰 大地を拓いた人々』(青森県立郷土館)

この記事を書いた人

ライター:齋藤 勇磨

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